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ドイツ語のお勉強(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

ドイツ語は一応文法を一通りやったけど、講読や読書会に出たことない。そこで、しょうがないから自分で勉強することにした。そういうわけで、たぶんホントにホントに訳文はめちゃくちゃだと思うけど、ニーチェ『善悪の彼岸』を訳してみる。テキストはGutenberg projectのこれを使う。

 

序文

真理が一人の女だとしたら、どうだろう? すべての哲学者たちは独断論者で会った限りで、女性に慣れていなかったのではないかという疑いは根拠のないものであろうか? これまで彼らがひどい真理に近づこうとするとき、真面目さ、ぎこちない厚かましさを備えているのが常であったが、これは女性*1の好感を得るために、これはあまりにぎこちなく無作法な方法でなかっただろうか*2? もちろん、彼女たちの好感を得ることができなかったのである。―今や、あらゆる種類の独断論者が悲しく落胆した様子でそこに立っているのである。そもそもまだ立っているとしたらだが。なぜなら、彼らは倒れて、全ての独断論者は地面に横たわっているとか、あるいはむしろ、息絶えようとしようと言う皮肉屋がいるからである。真面目な話、哲学の独断的な議論はすべて、これほど厳めしく、自らを最後にして最新の妥当性を持つものとして振る舞っていても、上品な子供っぽさ、素人の遊びになると予想する、ちゃんとした理由があるのである。独断論者たちがこれまで建築してきた、そうした崇高で絶対的な哲学という建物の礎石となるのにそれだけで本来十分なものが何かを何度も何度も把握することになる時代がおそらく近いのである。―それははるか昔からの民族的な迷信のようなものである(たとえば、主体あるいは自我という迷信として、まだ今日でも迷惑を引き起こすことをやめないような魂という迷信のような)、おそらくなにか言葉曽比のようなもの、文法からの誘惑、非常に限られた、非常に個人的な、人間的な、あまりに人間的な大胆な普遍化のようなもの。前の時代に占星術がそうであったように、独断論者の哲学はせいぜい数千年先の約束にすぎない。その仕事には、今までの一つの本当の学のようなもの以上に、労働力、金、洞察力、忍耐が消費されてきた。―その学とその超自然的なもののおかけで、アジアやエジプトに巨大な建築様式をつくることができたのである。すべてのすぐれた事柄は、人類の心に永遠の課題として刻みこむために、怪物的で恐怖を引き起こす顔にならなければいけなかったようである。そのような顔が独断的な哲学であり、たとえばアジアのヴェーダンタ学、ヨーロッパのプラトン主義である。こうした哲学に対する感謝を忘れるべきではない。当然、今までの謝りのうち、この上なく迷惑で、厄介で、危険な一人の独断論者の誤りであったということ、つまり純粋な精神と善それ自体のプラトンの発明ということも忘れてはならない。

(とりあえず途中まで。かなりテキトー)

*1:um gerade ein Fraeunzimmerのgeradeがよくわからない

*2:最初のdassは感嘆文みたいなことだろうか?