本当のことは誰にも言わない

書けるときは書きます

ドイツ語のお勉強(ニーチェ『善悪の彼岸』序文の続き)

つらい。長いしまた適当になってしまった。でも、毎日継続することが重要だよな。

 

しかし、その誤謬が乗り越えられて、この不安から一息つき、回復した、眠りを楽しむことも可能になった今では、私たちはこの誤謬との戦いのうちではぐぐまれた力すべてを受け継ぐものなのである。たしかに、プラトンがそうしたように、精神と善について語ることが意味していたのは、真理をさかさまにすること、すべての生のパースペクティブ、根本条件を自ら無視することである。医師として次のように問うことができる。古代の最も偉大な収穫物であるプラトンはどこからこの病にかかったのか。やはり悪いソクラテスが彼を堕落させたのか? やはりソクラテスは若者たちを堕落させるものであったのか? 彼がドクニンジンを飲まされたのは当然のことだったのか? プラトンの戦い、もっと分かりやすく通俗的に言えば、千年を超えるキリスト教-教会の圧力との戦いは―というのは、キリスト教は大衆のためのプラトン主義であったから―かつて地上には存在しなかったほどに、ヨーロッパにすばらしい精神の緊張を生み出したのである。これほど張りつめた弓をもってこそ、この上なく遠い目標を撃つことができる。もちろん、ヨーロッパ人はこの緊張を緊急事態であると感じている。そして、その緊張を緩めることは既に二度偉大な仕方で試みられたのだ。一度目はイエズス会を通して、二度目は民主的啓蒙を通して―実際、出版の自由と新聞を読む自由のおかげで、精神がが自らをもはやそう簡単に「緊急事態」に陥らないようになるということが達成されたのかもしれないのである!(ドイツ人たちは火薬を発明した―しかし、注意してほしい! それを帳消しにしたのである―彼らはプレスを発明した)。しかし、われわれは、イエズス会士でも民主主義者でも、また十分にドイツ人でもないわれわれは、よきヨーロッパじんであり、自由な精神、きわめて自由な精神であるわれわれは―まだ精神の緊急事態と精神の完全に張りつめた弓をもっているのである。そして、その矢、課題、誰が知っているだろうか? 目的地もまたおそらく…