本当のことは誰にも言わない

書けるときは書きます

ドイツ語のお勉強(ニーチェ『善悪の彼岸』1)

テキストはこれ。ドイツ語を勉強するために、なんか気になったところを気ままに訳すことにした。

まだわれわれを数多くの大胆行為にそそのかすことになる真理への意志、すべての哲学者がこれまで畏敬をもって語ってきたあの有名な誠実さ。この真理への意志は今までどのような問いをわれわれに提示してきたか! なんと奇妙で困ったいかがわしい問いなのだろうか! それはすでに一つの長い歴史である―だが、その問いはまだほとんど始まってさえもないようではないか? いつかわれわれがついに疑い、辛抱できなくなり、反対にせっかちになっても、何の不思議があろうか? このスフィンクスから私たちは私たちで問いを学んでも、何の不思議があろうか? ここでわれわれに対して問いを立てている者は、本当は誰なのか? “真理へ”と向かおうとするのは、われわれのうちの何なのか?―実際、この意志の原因に対する問いの前で、われわれは長いあいだとまったままだったのである。最後には、いっそう根本的な問いの完全に立ったままになったのである。われわれはこの意志の価値を問うた。真理を望んでいるとして、なぜむしろ非真理ではないのか? そしてなぜ不確実性ではないのか? 非-学自体ではないのか? 真理の価値の問題がわれわれの前に歩み出てきた―あるいは、その問題の前に歩み出たのはわれわれだったのだろうか? ここでわれわれのうちでオイディプスとは誰なのか? 誰がスフィンクスなのか? いわば問いと疑問符のデートのようなものである。―次のように思うべきなのか*1? 今まで立てらたことのない問題のように―はじめてみられ、眼に入ってきて、試みられる問題のように。というのは、それはそのとき、ひとつの大胆な試みなのであり、そしておそらくそれより大胆な試みはないのである。

 哲学の前提になっていた真理への意志そのものを問題にした箇所。昔読んだときは感動したが、当時はかなり新しい着想だったんだなあと思うくらい感じである。これだけ読んでも、結局誰が問いを立てているか分からないしな。

 

真理への意志がまだ数多くの大胆な行為にわれわれをそそのかすと、未来形で書いてあるのは気になった。ここでは少なくとも"真理への意志"を否定しているわけではないのね。

 

しかし、問いと疑問符のデートStelldischeinってなんなんだ。

 

翻訳は昨日よりは自信があるが、まだまだ検討しきれていない部分が多くて、適当になってしまっている。

*1:ここに"dass es uns schliesslich bedünken will"あるが、分からなかった