本当のことは誰にも言わない

書けるときは書きます

ドイツ語のお勉強(ニーチェ『善悪の彼岸』17)

テキストはGutenberg Projectから。

原文

17.

Was den Aberglauben der Logiker betrifft: so will ich nicht müde werden, eine kleine kurze Thatsache immer wieder zu unterstreichen, welche von diesen Abergläubischen ungern zugestanden wird, - nämlich, dass ein Gedanke kommt, wenn "er" will, und nicht wenn "ich" will; so dass es eine Fälschung des Thatbestandes ist, zu sagen: das Subjekt "ich" ist die Bedingung des Prädikats "denke". Es denkt: aber dass dies "es" gerade jenes alte berühmte "Ich" sei, ist, milde geredet, nur eine Annahme, eine Behauptung, vor Allem keine "unmittelbare Gewissheit". Zuletzt ist schon mit diesem "es denkt" zu viel gethan: schon dies "es" enthält eine Auslegung des Vorgangs und gehört nicht zum Vorgange selbst. Man schliesst hier nach der grammatischen Gewohnheit "Denken ist eine Thätigkeit, zu jeder Thätigkeit gehört Einer, der thätig ist, folglich -". Ungefähr nach dem gleichen Schema suchte die ältere Atomistik zu der "Kraft", die wirkt, noch jenes Klümpchen Materie, worin sie sitzt, aus der heraus sie wirkt, das Atom; strengere Köpfe lernten endlich ohne diesen "Erdenrest" auskommen, und vielleicht gewöhnt man sich eines Tages noch daran, auch seitens der Logiker ohne jenes kleine "es" (zu dem sich das ehrliche alte Ich verflüchtigt hat) auszukommen.

試訳

論理学者の迷信について、ひとつのちょっとした事実を何度でもわたしは飽きずに強調するつもりだ。その事実を迷信深い人たちは認めるのを嫌がる―つまり、”それ”er*1が欲するwöllen*2とき、”わたし”が欲するときではなく、思考が生じるのであり、それゆえ、”わたし”という主体が”考える”という述語の条件であるということは、事態の偽造であるということである。それがes考えるのである。しかし”それ”がよりによって*3あの古く有名な”わたし”であるというのは、控えめに言って、一つの想定、一つの主張に過ぎないのであり、とりわけ”直接的確実性”では全くないのである。結局のところを言えば、この”それが考える”でも、やりすぎなのである。つまり、すでにこの”それ”は出来事に関する一つの解釈を含んでおり、出来事そのものに属するものではないのである。ここで人は文法的習慣に合わせて次のように推論する。”考えるということは一つの事態であり、事態にはそれぞれ、働いている一つのものが属する、だから―。”おおよそ同じ図式にしたがって、古い原子論者も働いている”力”を、また力が位置づけられ、そこから力が働く物質のかたまり、原子を探求したのである。最終的には、厳密な頭脳をもつ人たちはこの”大地の残滓”をなしですますことを学んだのであり、いつか人はまたそれになれて、論理学者の方でも、(本当で*4古い私が気化されたところの)あの小さな”それ”なしですませることになるだろう。

 

コメント

たしか、フロイトのエス概念の形成に影響与えた有名な箇所。

考えているということが与えられているのは確かだが、そこから考えている私があるというのはおかしい。考えている"それes"でもいいではないか。それどころか、そもそも考えている何物かがあると考えなくても、ただ"考える"があると考えてもよいのではないかという話。

興味深いのは、strengere Köpfeはすでにそれに近いことをやっていたといっているところ。誰のことだろう?

*1:ここだけesではなくて、erになっているが誤植か?

*2:wöllenはこういうとき、意志するより欲するの方がいいのだろうか?

*3:geradeの訳は自信がないが、”よりによって”にした

*4:ehrlicheのいい訳がわからない