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ジェイムズ『プラグマティズム』を読むためのJosiah Royceに関するメモ(SEP)

某読書会でウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を読んでいるのだが、彼が想定している論敵がマイナーなので、何の話をしているのかがわかりにくいところがある。

 

その論敵の一人がアメリカの絶対的観念論者であったJosiah Royceである。SEPのエントリを書いてるKelly A. Parkerさんによると、Royceとジェイムズは論争を通してお互いの哲学に深く影響を与えているらしい。それでは少しRoyceのことを勉強しなければならないのだが、直接Royceの著作にあたるのは面倒くさい。

 

そこで、SEPのエントリからジェイムズを読むのに必要な箇所を抜き書きすることにした。『プラグマティズム』では、真理と宗教が問題になっているから、その二つを中心。ジェイムズは1910年に亡くなっているから、それ以降の部分は無視した。

 

出典:Parker, Kelly A., "Josiah Royce", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <http://plato.stanford.edu/archives/sum2014/entries/royce/>.

 

イントロダクション

・Josiah Royce(1855-1916)は絶対的観念論のアメリカにおける代表的支持者(G. W. F. HegelとF. H. Bradleyの系譜)。絶対的観念論というのは、ときに断絶していたり矛盾していたりするように思われる、実在realityのあらゆる側面がすべてを包み込む単一の意識のなかで、究極的には統一するという見解である。

 

・主著は『哲学の宗教的側面』The Religious Aspect of Philosophy (1885)、『世界と個』 The World and the Individual (1899–1901)、『忠誠の哲学』The Philosophy of Loyalty (1908)、『キリスト教の問題』The Problem of Christianity (1913)。

 

Royceはジェイムズと仲がよかったが、”絶対論争The Battle of the Absolute”と呼ばれる論争を二人は長く続け、これが二人の哲学に深く影響しているらしい。

 

・後期は絶対的プラグマティズムという立場に立ち、あらゆる実在の側面を包含する単一の意識というアイデアは捨てるらしい。その代わりに、諸精神による無限のコミュニティが解釈することで生じる、観念あるいは記号の宇宙として、実在を考えるらしい。そして、諸精神自体も記号としてみなされるようだ。

 

1.生涯

・1883年の一月に、彼の哲学の核となるアイデアを得る。つまり、真理と誤謬に関するわれわれの日常的概念が意味をもつためには、絶対的認識者Absolute Knowerが存在しなければならない。このアイデアをもとに書かれたのが1885年の『哲学の宗教的側面』。

 

・Reasoning and the Logic of Thingsとして知られるパースの授業に出席していて、これが論理学と形而上学に関するRoyceの考え方にかなり影響しているらしい。

 

・1899年と1900年にギフォード講義で授業をする。この講義で、Royceは長年の研究をまとめ、彼独自の哲学を打ち出しているらしい。この講義がもとになって、『世界と個』が出版される。

 

・この著作は詳細に練り上げられたもので、彼の哲学者としての評判を動かぬものにした。Royceはこのとき45歳。

 

・『世界と個』でRoyceの哲学は一つの完成をみる。けれども、この著作以降、Royceは次の二つの点で今までとは異なる方向で発展していくことになる。

 

 (1)形式論理学的あるいは数学的な概念をますます用いるようになる。それは、『世界と個』におけるRoyceの論理の使い方をパースに批判されたことを受けたことが大きいらしい。

 

 (2)生の具体的現象を理解する手段としての哲学を強調しはじめる。具体的には、人間社会、宗教経験、倫理、悪の問題など(生の具体的現象でくくれるというのはあまりピンと来ないけど)。

 

 二番目の方向というのは、Royceの個人的な生活を反映しているらしい。このころ、Royceの息子が精神を病み始めたらしく、ほとんど回復する希望はないながらも、Royce夫妻は彼を精神病院に託すことにした。息子は1910年に腸チフスで亡くなり、同じ年に親友であったウィリアム・ジェイムズがなくなっている。

 

この経験から、今までRoyceの関心の中心にあった形而上学的問題にくわて、(2)のような生の具体的現象に対する関心が彼の哲学を大きく占めるようになった。1908年『忠誠の哲学』は倫理学に関するRoyceの主著である。

 

Royceとジェイムズは宗教に関しても対立する意見をもっていた。Royceはジェイムズの死後になってはじめて自身の宗教哲学を形にしているが、ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(1901年と1902年のギフォード講義が元ネタ)の多くの議論がRoyceを論敵にしたものであるらしい(ただし、Royceの名前は出していない)。

 

宗教的経験の諸相』を読んで(講義を聞いて?)、Royceはジェイムズがあまり特異な個人の特異な経験を強調しすぎていると思ったらしい。Royceキリスト教組織の慣例的なものに対して敬意を払っていたからである。Royce宗教哲学は、普通の人々のコミュニティが経験するところの日常的な信仰を説明しようとするものである。

 

Royceは長らく沈黙を守っていたが、ジェイムズの批判に対する答えを1911年の講義であらわにする。これは1912年『宗教的洞察の源泉The Sources of Religious Insight』として出版される。Royceはこの著作のなかに彼のすべてがコンパクトにおさまっていると述べているらしい。

 

2.哲学

Royceの哲学全体は、無限の宇宙のなかでの個(人)の位置を理解しようとする努力としてみなすこともできる。

 

2.1 形而上学と認識論:観念論と解釈

絶対観念論(断絶あるいは矛盾しているような実在の側面が単独の意識のうちで統一される)を擁護するために、彼がもたらした新しいものが”誤りからの議論argument from error”と呼ばれるものである。

 

知識が可能であるために、世界はどのようでなければならないかをカントが問うた。同じように、『哲学の宗教的側面』のRoyceは、われわれの認識が誤るためには、世界はどのようでなければならないかを問う。

 

知識の対応説によれば、ある観念が正しくその対象を表象するとき、その観念は真であり、ある観念がその対象を正しく表象していないとき、その観念は誤りである。そのときRoyceが指摘するのは、そのような場合、誤りをおかすとき、その精神は誤った観念と誤った対象をもつことになるが、その精神は同時にその観念の真の対象を志向しているということである。つまり、真の対象に何らかの仕方でその精神はアクセスしているのである。このように、われわれが誤りながらも真の対象を志向することができるということから、絶対認識者が存在するとRoyceは主張する。その認識者においては、あらゆる観念はすべて正しくその真の対象と対応しているのである。

 

この議論に対して反論する一つの方法は、絶対認識者ではなくとも、ある精神に外在的な、何らかの客観的実在を想定するだけで、誤りの可能性を説明することができるのではないかと指摘することである。この反論をRoyceは『世界と個』で考察している。ここで、自分の議論を説得的にするために、客観的実在に関する四つの有力な見解について検討することになる。

 

(1)実在主義:われわれの思考や観念から完全に独立して、世界は存在している。

 

Royceのコメント:この立場はわれわれの思考と世界がまったく独立しているとしてしまうので、思考と世界の二元論に陥ることになり、認識の成立を説明することが困難になる。

 

(2)神秘主義:われわれび精神から独立する客観的実在は、われわれの精神に直接与えられているものである。

 

Royceのコメント:客観的実在が直接与えられている場合、われわれはその実在と自分の観念を区別することができないはずである。その場合、誤りというものが生じることを説明できなくなるのではないか。

 

(3)カント的批判的合理主義:われわれの精神から独立する客観的実在を認めながら、われわれの経験の普遍的構造に適合することによって、客観的実在は認識されるとする。

 

Royceのコメント:この立場だと、誤りを犯す可能性は説明できるが、具体的ではない(このへんよくわからないので、各自原文確認してください。Royceのカント理解がおかしいのではないかとちょっと疑っている)。

 

(4)第四の立場forth conception of being:Royce自身の立場

 可能的経験だけではなく具体的存在者が必要、みたいな?

 

このforth conception of beingがRoyce形而上学全体を支えるものらしい。絶対的認識者は無時間的であるらしい。

 

後期になると、あいかわらず知識の対応説を取っているが、パースの影響を受けて、表象の創造的、総合的、選択的な側面に注目するようになったらしい。ここでは、知識は解釈のプロセスであり、真の観念とは、のちの経験において、有意味に実現されることになる対象の側面を、選択し、強調し、ふたたび提示すること(=表象re-presents)ことになるらしい。

 

知識が創造的な解釈のプロセスであるとすると、観念に対応する対象が絶対認識者である必要はなくなるらしく、絶対認識者というアイデアは捨てられることになるらしい。Royceは絶対精神のヘーゲル的ではない説明を長く探していたそうだ。『キリスト教の問題』になると、絶対認識者のかわりに、無限の解釈共同体が出てくる。

 

2.4 宗教哲学

 Royceにとって、最初の主著『哲学の宗教的側面』から、宗教は主要な関心の対象である。『世界と個』では、自らの探求の対象が”個のなかの個、つまり絶対者、あるいは神自身”であると述べている。

 

しかし、Royceの賞賛者にあいだでも、彼の哲学には神論conception of Godが欠けられていると言われていた。パースは、Royceの神は誰も崇拝することがない神であると述べている。ジェイムズは、われわれの誤りや悲しみが絶対者のうちで統一されるならば、人々は自分自身の行為に責任から免れることになり、終生の精神的休日を味わうのとほとんど同じであると異論を述べている。『忠誠の哲学』以降、Royceは倫理やコミュニティといった問題にいっそう大きな注意を払い始める。彼の後期の著作では、忠誠という観念が人間の共同体における宗教経験の本性を説明するのである。