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Philip L. Quinn「キリスト教による人生の意味」

第5章。これで有神論的な方はおわり。

 

The Meaning of Life: A Reader

The Meaning of Life: A Reader

 

 

 
 
◆著者について
Quinnは哲学者および神学者。物理学の修士課程を修めているとか。
わりと名前は見るので、有名な人のはずだが、Wikipediaの記事はあまり詳しくない。
 
 
◆価値論的意味と目的論的意味
論理実証主義が勢いのあった頃は、人生の意味の問いは、擬似問題の疑いをかけられていた。
その理由の1つは、意味をもつのは、テキストや発話であるので、人生は意味を持たないという
ものである。
 
今から考えると、この議論は性急なものであり、人生の意味に関する宗教的な議論では、
価値論的な人生の意味と目的論的な人生の意味の定義が重要である。
 
(AM)(i)人生がポジティブな内在的価値を持ち、(ii)全体として、その人生を送った人にとって、
    人生がよいものであるとき、しかもそのときのみ、人生が価値論的意味を持つ
(TM)(i)トリヴィアルはなく、かつ、達成可能であると、その人生を生きる人がみなしいる目的を人生が含んでおり、
    (ii)こうした目的はポジティブな価値をもっており、(iii)こうした目的を達成するために、
    熱意を持って実行されたとき、しかもそのときのみ、人生は目的論意味を持つ
 
Quinnは、価値論的意味と目的論的意味は独立しており、人生は下記のいずれかのパターンに当てはまることになる。
 
①人生は価値論的意味と目的論的意味の両方をもつ
②人生は価値論的意味をもつが、目的論的意味をもたない
③人生は価値論的意味をもたないが、目的論的意味をもつ
④人生は価値論的意味と目的論的意味の両方をもたない
 
①の場合、人生は完全意味を持っているとQuinnは呼ぶ。
 
この論文で、Quinnはキリスト教において、人生の価値論的意味、目的論的意味、完全意味とは何かを示す。
 
◆キリストに倣いて
人生自体は言語ではないが、人生についての物語は言語である(だから、人生について意味を語れるということ?)。
キリスト教では、歴史という物語が重要視されてきた。
 
福音書の物語は、Nicholas Wolterstorffにしたがえば、キリストのポートレートである。
トマス・ア・ケンピス『キリストを倣いて』に代表されるように、
キリストに倣うということは、キリスト者にとって伝統的に非常に重要なテーマである。
 
キェルケゴールは『キリスト教の修練』で、キリストを賛美することと、キリストを倣うことの対照を
強調していた。キリストを倣うとは、十字架に架けられたキリストを倣うということである。
キリストの模倣者は、キリストの如く、自らを低めなければならない。
 
キリストの模倣者は、苦しまなくてはならない。善をなすために、自ら望んで苦しむことが求められる。
 
他人の気分を害する可能性 なしに、キリストの模倣者になることはできない。実際、キリストの同時代人は、
キリストをロクデナシや詐欺師、デマゴーグであると考えていただろう。
 
こうして、キリストの模倣者は、善をなすために悪に苦しみ、他人からは不快だと思われることを
望まなくてはならない。こうしたことは、合理的な人であれば避けることであり、キリストの賛美者には
できないことである。
 
キリストの教えには、模倣者になるようにという勧めが含まれており、模倣者になろうとしない賛美者は
キリストの教えに対してリップサービスをしているだけだとキェルケゴールは述べている。
 
ネーゲルの議論への応答
すべてのキリスト教徒が、キェルケゴールのラディカル見解に同意するわけではないが、
キェルケゴール的な意味での、キリストの模倣者は人生の目的論的意味をもつと言うことが
できるだろう。しかし、キリストのように、キリストの模倣者が苦しんで人生を終えるとすれば、
その人生は価値論的意味をもつことになるのだろうか。すなわち、その人にとって、人生は全体としてよいものなのだろうか。キリストの模倣者が価値論的意味を持つためには、死後の生が必要だと思われる。
 
トマス・ネーゲルの議論によれば、客観的な観点から見ると、われわれの人生は重要ではない
ということになる。それに対して、キリスト教者は、神がわれわれを愛をもって創造し、われわれ人類に
関心を持っていることを知っているので、ネーゲルの議論の結論に抵抗することができるはずである。
人間の人生は、全知全能にして善なる神にとって、重要なものである。
 
ただ、人類が神にとって最も重要なものであるどうかはわからない。注意深いキリスト教者であるならば、
気づくはずである。
 
最後に、キリスト教のテキストにも多様な解釈がありうるし、他の宗教も存在するので、
キリスト教者は、人生の意味の問題についても、認識的な謙虚さをもつべきであると注意をうながす。
 
◆コメント
一番重要なのは、キリストの模倣者となることによって、人生の目的論的意味が与えられ、
死後の生によって、価値論的意味が補われ、キリスト者の人生は完全意味をもつということだろう。
 
気になるのは、価値論的意味だけで、キリスト者の人生は意味をもつのかということだが、
たぶん持たないことになるのではないかという気がする。